――ここは……?――
何処までも仄暗く広がる空間がルキアを包み込んで、その動きを拘束する。眼下まで持ち上げた指先の輪郭だけが、辛うじて自分を確認する手段だ。ここは何処なのか、何故こんなところにいるのか、他の者はどうしたのか。色々と考えることはある筈なのに、薄皮が一枚張ったような頭はどうにもうまく働かない。濃密な空気が四肢に絡みつき、形の無い枷となるのがもどかしかった。
ひょっとして自分は死んでしまったのだろうか。足元からだんだんと塵になっているのに気付いていないだけかもしれない。そんな思いがふと過ぎってルキアは知らず震え上がる。
何を莫迦げたことを。
頭を振って霞掛かった目を覚まそうとするが、その躯は色濃く立ち込めた靄で境界線が滲む。自分の中身が意思に反して流れ落ちる感覚がルキアを襲う。
嫌だ いやだ
これは何なんだ
みんな何処へ行ってしまったんだ
目の前には慣れ親しんだ姿が何人も鮮やかに浮かぶ。
それに声を掛けようとして
驚愕に襲われる。
声が 出ない
名前が 出ない
何故だ 何故だ
こんなにもはっきりと映るのに
一緒に走った
二手に分かれて追いかけた
交代で眠った
囲んで護った
なのに
今は誰もいない
みんなみんな大切な家族なのに
いつの間にか己から抜け落ちている
どうして どうして分からないんだ?
耳鳴りのする静寂の中で、突然降りかかる声は何処から聞こえて来るのか見当もつかない。ざらついたその響きと、嘲るような声色がルキアの苛立ちを
一層増幅させる。
――――どうしてだと思う?――――
呼びかけを合図にするかのように、靄が霧散して視界が開けてゆく。薄暗い無彩色の世界は消えるが、不快感はますます躯の中で暴れ狂い、身を焦がす。
頭の隅で警鐘が激しく鳴り響くと同時に五感が急激に覚醒しだし、あらゆる情報が濁流となって躯の中へ雪崩れ込んできた。
ミテハイケナイ キイテハイケナイ シッテイルハズダ イヤナコトヲイウヨ
――――それはね
無彩色の代わりに辺りを埋め尽くすのは赤い色。
みんな
むせ返る血の匂いが酷く鼻をつく。
死んでしまったからだよ?――――
幾重にも折り重なった動かない肢体は赤黒い体液に塗れていた。
それはさっき頭に浮かんだ馴染みの顔だが、張り付いているのは見たこともないような苦悶の表情。
「い、やあああああああ!!」
ようやく出せた声は呪縛を解く絶叫となった。
何故だ? 何故だ?
これは何だ?
分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分から
「ルキア!」
自分を覗き込む紅い瞳。力強く掴まれた腕に躯を拘束されたルキアは、一瞬息を止め視線を絡ませた。
「れ ん……じ」と呟く声が奇妙な間を置いて唇から零れると、矮躯がその胸へ崩れ落ちた。
浅い呼吸と、細かく震える躯を落ち着かせようと恋次はルキアを抱き抱える。いつもなら苦しい、放せ、
などと抵抗してくる程の力を込めても、ルキアの手はしっかりと恋次の着物を握り締めていた。
「……だ」
「どうした?」
ルキアの声は俯いているのでくぐもってよく聞こえない。恋次は少しだけ力を緩めて躯を離し、口元を見つめて次の言葉を待った。
「…………私は……薄情者だ」
「あ? 何でだよ?」
沈黙が二人の間にやや暫く横たわった。答えを急かさないのは、あまりにも何時もと違い過ぎるルキアの叫びを聞いたからだが 自分がこんなに辛抱強いとは、と恋次は胸の内で苦笑した。
「…………呼び掛けることさえ、出来なかった」
ぽつりぽつりと、薄く開いた唇から想いが告げられる。
「ずっと一緒にいた……家族なのに
名が出て来なかった」
恋次の手がゆっくりとルキアの背中を擦る。あやすように、宥めるように、じんわりと体温を移す。
「今もそうか?」
恋次の問いかけに小さく頭が横に振れる。
「ならいいじゃねえか」
うなされただけだ お前のせいじゃないという言葉にもルキアの表情は変わらなかった。
「みんな……血塗れだったんだ。苦しんで事切れたようだった。なのに」
「お前が私を呼んで、あそこにお前が居ないのが分かって」
「……ちゃんと恋次の名を呼べたことに、私は……ほっとしたんだ」
頭を垂れるルキアの声は消え入りそうに細かった。
「大丈夫だ」言い含めるように、恋次は抑揚を抑えてゆっくりと喋る。背中に回された手は一定のリズムでルキアを撫で、呼吸を整えてゆく。
「薄情なんかじゃねえよ。お前は酷くうなされていた。……だから俺はお前のことを呼んだんだ」
――あんな悲鳴を上げる奴が、これ以上自分を責めるな――
今夜の湿り気を帯びた空気があの日に似ているからか。
最後の家族を失った夜は、涙のような小雨が朝まで絶えず降り続いていた。
お前が薄情だと言うのなら、俺だって薄情だ。
ルキアが苦しんでるってのに
俺の名前は忘れなかったってのが酷く嬉しくて。
そう、嬉しくて
笑い出してしまいそうなんだ。
固く握られたルキアの手をそっと解き、呪文のように恋次は語り掛ける。
「俺はずっといるから大丈夫だ」
お前を一人にはしない
「俺達二人であいつらの分も生きるんだから」
「……そう、だな……恋次がいるなら」
ルキアの声にまどろみが混じり出す。
「ここにいるからもう少し寝てろ。まだ夜明けまでは早い」
お前が笑えるなら
俺は大丈夫
それは 戌吊を発つ日の誓い
遠い遥かな未来まで続く。