戌の刻も一つばかり過ぎた頃、黒壇の机に向かい唸る影が一つ。
「うーん、疲れたなあ」
「遅くまでご苦労だな」
「うお! てめーどっから沸いて出た!」
伸びをする手を慌てて引っ込めた拍子に書類の山はバランスを失い、盛大な雪崩を起こした。波が足元を洗いそうになり、ルキアの目は丸くなる。
「人を温泉のように言うな。兄様は本日清家殿と、来月の梅の会の打ち合わせをなさる筈だからな。お前が一人で書類まみれになってるだろうと思って来てみたのだが」
足元の書類を踏まないように幾つか拾い上げ、ルキアは小さく溜息を吐いた。
「やっぱりな」
「うるせーこれは今ビックリした拍子に散らかっただけで、処理は終わってんだ!」
「ほう? 相変わらず豪快な字だなあ」
「あ、こら! 他の隊のもの見んなよ!」
「何だ、せっかく拾ってやったのに。ではお前が何とかしろ」
「うを! だからって捨てんなよ……っとっと」
「ふむ、器用なものだ」
ルキアの手から離れ、ひらひらと舞う紙を恋次は両手でぱしぱしと受け止め、曲芸のように集めた。
「ところで、普段使い慣れぬ頭を回転させて大分疲れたようだな」
「普段だって使っとるわ!」
言ったとたんに、盛大にぐうと鳴る腹の虫が二人の間に割って入る。
「まあ……腹は減ったな」
ばつの悪そうな顔で、恋次はぽそりと呟く。実際、目処がつくまで、と時を気にせずやっていたから、気が付くと夕食を取り損ねてもおかしくは無い位にはなっているのだ。
「知っているか? 頭脳を良く働かせるには甘いものが効果的なのだそうだぞ?」
頭の中に一瞬で、甘味処のお品書きが端から順に流れていった。そしてたい焼きの特大アップ。
その表情を見透かしたかのように、ルキアが恋次の顔を覗き込んだ。
「さて、此処にあるのは何だと思う?」
その言葉と共に漂うものは。
「この匂い……ルキア?」
「そうだ、葵屋のたい焼きだぞ」
にっこり微笑み、包みを差し出す彼女が女神に見える。
「くれるのか? ありがとうよ!」
「こら」
受け取ろうと差し出された手は空しく宙を切った。恋次の眉間に皺が寄る。
「せっかく兄様の不在で苦しんでいるだろうからと、私がわざわざ差し入れを持って来ているのだぞ?」
おお、わかってるよ。だから早くくれ! と喉物まで出掛かった言葉を恋次は辛うじて飲み込む。
ここで機嫌を損ねたら、あたるもんもあたらねえやと抑えた態度に、ルキアは不敵に笑って次の句を告げた。
「何が欲しいか言ってみろ」
「うわ、何だテメー!」
寸前でお預けを喰らった紅戌が唸った。腹が減ってる分目付きが普段より凶暴化している。だがルキアにはそんなものは威しにもなりはしない。
「意思表示も出来ん奴にやる必要はないだろう?」
「くっそー! ルキアさん、そのたい焼きを是非とも俺に下さい。お願いします」
「どうしても欲しいか?」
包みの中から一匹を取り出して、ルキアはそれを恋次に見せて微笑む。
「そりゃ食いてえよ!」
「……そんなにたい焼きが好きか?」
何でここで声の調子が落ちる? と思いながらも恋次は一気に捲くし立てる。
「そりゃ好きだし、テメーが俺に用意したんだろ? だったら食いたいに決まってんだろ!
あーもう四の五の言ってないでさっさと寄越せ!」
一瞬ルキアの瞳が揺らいだ隙に、大きな手が見せびらかしていたものを奪っていく。大きく開いた口に、そのままたい焼きの頭が飲み込まれた。
「ん? 何だこれ。餡じゃねえ……」
「それは現世風なのだ。ちょこくりーむたい焼きだぞ」
いつの間にかルキアの声は大人しくなっている。さっきまでの厳つい態度が嘘のようだ。
「いつもと違うけど、美味いぜこれ」
「美味いか?」
「おお、お前がくれたから格別美味い。一緒に食おうぜ」
心なしか耳まで紅いルキアに恋次は気付いているような、いないような。
この時期、ちょこれーとを渡すのがどういう意味なのか
こやつ分かっているのか……?
まあ、幸せそうに食べているから、よしとするか。