『夜眠る』  全身が燃えるように熱い。  息が切れるのは走って戻ってきたせいだけではなかった。  壁にぴったりと背をつけてルキアは大きく息を吐く。  背中がうっすらと汗ばんでいるのが分かる。  呼吸を整え、気持ちを落ち着けなければ、このまま邸内で平素を保つ自信が無かった。  静まり返った屋敷の中で、こんな霊圧を纏っていては何があったかと不審がられてしまう。  分かっている。自分は少しどうかしているのだ、とルキアは目を伏せた。    恋次は勤務中なのだ。  しかも、通常なら有り得ないような凡庸な仕事をしているのは、自分のせいと言ってほぼ間違いないだろう。  それを思うと胸が酷く痛んだ。    あの、燃えるような紅が、指で梳けるようになるまで、あとどれぐらいかかるのだろう。  恋次が禁固を解かれ、夜歩くようになって既に三週間が経つ。  ルキアに関しては刑らしい刑は与えられていなかったが、それはあくまで表面上のことで、勤務時間内は一種の軟禁状態と化していた。  常に誰かが付いて行われる単純業務。  出来上がった書類を届ける為に、席を立とうとした途端、手の内の束は視界から容易く姿を消した。  驚いて周りを見渡すルキアに降って来るのは 「これは此方にお任せ下さい」  と言う儀礼的な言葉だった。  室内でさえ満足に動けない異常事態に、耐え切れず上げた抗議の声は『隊長命令』の下に一瞬で封殺され、ルキアはため息を吐くしか無かった。  この隊で闇雲な指示を受けた事は無かった。  恵まれていると思った。  これは明らかに『隊長』だけではない意志が働いていると感じた。  だからと言って、ルキアに出来る抵抗など皆無と言って良かった。  波風を立てて状況を悪化させるより、寡黙に時が過ぎるのを待つのが一番の得策と思われた。  全ては自分が兄の言を破って、恋次の元を訪れた事から始まったのだから。  隊と屋敷の往復で終わる毎日の中で、姿を見ることも無く砂を噛むような日々が過ぎるのはどんな刑罰よりも応えた。  浅い眠りの中で、知らず何度も名前を呼んでいた。  それでも、自分で決めて『結婚式をしよう』と其処に向かった気持ちまで流れてしまう気がして、泣く事だけはどうしても出来なかった。  眠れなくて辺りを歩いているつもりだった。  だけどひょっとしたら自分はぐっすり眠って、夢を見ているのかも知れない。  夢でも  逢えるならそれでも構わない。  花のように綻んで、ルキアはその気配の方向へと歩を進めた。  口の悪さも、鋭い眼光も、その奥の優しい光も変わらない。  他愛の無い言葉のやりとりが交わされる。  少し伸びた髪に指が触れようとしたが、その動きは途中で静止になり、躊躇いと共に潮のように引き返していった。  下を向いた瞳は、伸ばされた筋肉質の腕に気付かず、そのまま抱え上げられたルキアは堪らず短い叫びを上げていた。  ぼやけていた現実感が急速に戻って来る。  これは一体何なんだ。  躯に触れる感触が、耳に残る声が、砂の上に零れるしずくのように自分の中に沁み込み、より渇きを際立たせる。  夢でも、と思った筈なのに。  どうかしている。 ――足りない―― ――たりない―― ――タリナイ―― ――これじゃあ全然足りない―― ――こんなんじゃあ全然―― ――眠れやしない――  冷たい壁に熱を移すだけではとても眠れない。  矮躯を両手で抱きかかえながら、ルキアは切なげな息を一つ吐いて其処に蹲ることしか出来なかった。   夜はまだまだ長い。