『寝顔に…』



 柔らかな声にくすぐられた。
 それが気持ちよくて、幸せで。
 言おうと思っていた事が分からなくなってしまった。

 ああ、何だったろう。





 お日様の暖かさと匂いと、もう一つ幸せの匂いに包まれて頭が回らない。
 ゆっくり目を開けると視界に広がるのは紅い髪。

「おはよう、奥さん」
「……おはよう」
「っても夕方だけどな」
「夕方?」
 莫迦みたいにオウム返しをしても微睡む頭は上手く働かない。全く、私はどうしてしまったんだろう。
「疲れてないか? 戻った早々あれこれしたみたいじゃねえか」


 ……そうだ、帰ってきたんだ。

 この子は少し小さく産まれたから、授乳も小刻みにしか出来なかった。数時間おきの睡眠で私の躯もキツくて、正直朽木の屋敷じゃなかったら倒れていたと思う。
 その点は感謝している。あの時の私は必死だった。初めての事ばかりでこなすのが精一杯だった。何とかこの子を、という思いだけで動いていた気がする。
 ようやく生活の型が出来て自分が少し落ち着いた時、この子と同じ紅い髪に無性に会いたいと思った。忘れていた訳ではない。そんなことが出来る筈がない。私を捉えて離さない色が目の前にあるのだから。
 でも私は母になったのだ。素直に紅を求めていいのか躊躇いがあった。何もかも忘れてしまいそうな自分とどう折り合いを付けたらいいのかが分からなかった。

 恋次は朽木の屋敷にまめに来てくれた。私は不規則な睡眠を取っていたから、後から訪問を教えられたこともしばしばあった。二人の寝顔だけを見て帰って行ったと聞いて、何故起こしてくれないと憮然とすると
『阿散井様が起こすなと……』
と返された。それには私も何も言いようがなかった。
 加えて兄様にまで
「今は自分と子供の事を第一に考えて」
と諭されては、屋敷の者が私の眠りを妨げるなど有り得ないこととなってしまった。
 だからと言って寝ずに待つ訳にもいかない。



 顔を見れば、声を聞けば、手を取ればきっとこんなとりとめのない想いは消えていくのに。



「限界、だった」
「ん?」
「……おかえりなさい」
「ただいま」

 そう言いたくて戻ってきた。


「おかえり」
「……ただいま」

 顔を見て、声を聞いて、手を取りたかったんだ。





→『喧嘩のあと』