「恋次!」
良く聞きなれた声を聞く筈の無い今、此処で耳にして心臓が大きく波を打った。疲れているのか俺は、うん、そうに違いない。
終業間際に机に置かれたてんこ盛りの書類を、筆を執って片っ端からやっつけている最中だ。こんな事にゃあ負けねえと思っていたけど、結構キテるんだな。時計を見遣ると戌の刻も半ばを過ぎたところだった。
「聞こえているのだろう? 無視するとはいい度胸だな」
強気の幻聴だなあ、あいつらしいっちゃあらしいけど。……別に怒られたい訳じゃないからな、って何言い訳してんだ俺は。やっぱダメだなこりゃ。少し休憩すっか。
伸びてきた細い手は白磁のように一点の曇りも無く滑らかだった。いつもと違うのは、それが墨衣の死覇装に包まれていないことだろうか。代わりに手首に巻きついているのは色とりどりの小さな煌きを繋ぎ合わせた華奢な鎖だ。ルキアに良く似合っている。
その掌がそっと頬に触れると、ほんのりとした体温が伝わってきて俺は驚いた。最近の幻は触感までリアルなのか。
そして
「いて、いてててて!」
「……副隊長殿は寝ながら仕事をこなす技を身に付けたようだな」
「引っ張んなよこら!」
容赦無く掴まれた顔筋が悲鳴を上げてから、ようやくそれが実体だと俺の頭は認識した。
「ルキア!?」
「目が覚めたか?」
「寝てねえ!」
「嘘を吐くな。私を見ても何の反応もしなかったくせに」
「いや、それは……大体お前、此処にいる筈ねえだろーが!」
「ばれんたいん特別隊?」
「ああ、来週から三週間だそうだ」
現世に浮かれた空気が満ち溢れるその頃、幸せと同じくらいに不幸せも蔓延する。そして、その想いは知らず災禍を呼び寄せる。この時期は下級とは言え虚の出現がやたらと多くなるので何らかの対応を、と要請が来たという話は聞いていた。
「でも、何でお前が?」
「何でも、報われない男の末路のような虚だから、女性死神協会の全面協力の下で討伐隊を組むという事だったな」
「はあー?」
そりゃヤバくないですか? お前少しは身の危険を感じてくれよ!
不機嫌顔の俺を置いて、話はどんどん先へと進んでいった。
「魅力的、かつ腕の立つ女性死神の方々に、思わず出現したくなるような状況を作って貰って、包囲網で一気に叩くのだ。素晴らしいと思わんか?」
「……どうせ乱菊さん辺りに何か言われたんだろ」
俺の呆れ顔にルキアが眉を顰めた。
「気に入らないのか」
「大いに」
「どの辺が?」
「全部」
そりゃ言える訳が無い。
んな虚の前にお前を出したくない とか
現世の風習なのにそれに乗って、当日お前が居ないのが気に食わない とか
他人の面倒より俺の面倒見ろ とか
「そんなものは他の奴にやらせろ……等とよもや思ってはいないだろうな」
「いやその通り……って何ですか!」
その鋭利な刃のような霊圧が俺の全身をぎゅうと締め付けた。
「たい、ちょう……」苦しいです、俺潰れます。
「ルキアの能力に合い相応しい任務だ。何も問題は無い」
「でも、要するに囮でしょう? 心配じゃないんですか」
「……包囲網で一気に叩くと言ったろう」
「そうですけど」
「私がそんな輩をルキアに近付けさせると思うか」
「いいえ……って、え、ええ?」
まさか隊長も行くんですか? 副隊長は何も聞いてないんですけど。どういうことでしょう?
冷や汗の流れる俺の顔とは対照的に涼しげな顔が、目の前に一枚の書類を差し出す。
「これは今ルキアが持って来た物だ。私への正式な派遣要請書だ」
無言の霊圧が察せよと頭に圧し掛かる。そしてそれが通じてしまう俺も俺だ。
「……では今から、来週に向けての調整に入ります」苦虫を噛み潰す気分で声の震えを抑えた。
「うむ」
満足げに短く告げる隊長と、にこやかに笑うルキアとの麗しい兄妹愛に泣きが入った。
そうして
大量の未処理の雑務に埋もれて本日に至る。なるほど隊長の決済が必要なものは確かに無い。
その代わり、他の者で手分けしてこなさなきゃならない細々した作業が、どっから湧いてきたんだと思うほど山積みにあった。
ここぞとばかりにやってくれる。絶対帰ってくるまでにきれいに片付けてやると俺も意地になっていた。そう、ルキアを幻と見間違えるほどに。
「二週間振りだというのに、ずいぶんなご挨拶だな」
そりゃそうだろう。隊長と一緒にいて、抜け出して来るとは思わねえからな。
「……重大任務中じゃなかったのか?」
「ああ、だから時間があまり無い」
「……先月の外泊を兄様が相当気にしておられる」
「誕生日のやつか」
頷きながらルキアが俺を見る。
「松本殿の所に何度も話を訊きに来たとのことだ。機嫌を取っておかないと、と言われてしまった」
僅かに眉根を寄せて話す顔は、困ったような諦めたような何とも言えない表情だ。
「だからこの任務は断りきれなかったのだ。済まない」
強気な態度で登場したくせに、そんな風に言われたら、こっちとしては返す言葉が無い。
言いたいことは積み上げられた書類と同じくらいにあったが、此方を伺う紫紺を見ているうちにそれは遥か向こうに押しやられていった。
「で、何でお前死覇装じゃねえんだ?」
わざと声を大きくして聞いてみると、ルキアの顔が面白いほど鮮やかに染まった。
「こ、これが『思わず出現したくなるような』格好だと言われたのだ!」
「女性死神協会の見立てか?」
「ああ、だから着ろと言われたら着る!」
確かにそうだろう、ルキアが普段好むものとはまるで違う格好だ。
長めの羽織りものから覗く裾は膝より遥か上でひらひらと波打っている。
向こうの制服ならともかく、なかなか拝める姿じゃあない。しかも、配色が……何時もより数段甘い。
その格好でその顔すんなよと視線をずらせば、髪留めと同じ飾りが鎖骨の上で揺れているのが目に飛び込む。
ああ、ヤバイ。可愛がりたくて仕方ない。
「ま、いいんじゃねえ? 似合ってる」
「当然だ……じゃなくて! わわわ私はすることがあって来たんだ! 目を閉じろ!!」
「何で」
「いいから!」
真っ赤な顔で捲くし立てるルキアは面白かったが、必死なのは分かったから大人しく言うことを聞いておいた。
目を閉じると魅惑的な姿が消えるのが惜しくて、頭の中で何度も反芻した。
ルキアの気配が近づく、けれど何の言葉も発せられない。
「おい……」
まだダメなのか、と訊こうとした瞬間、柔らかな感触が唇に蓋をした。そして鼻孔に抜ける香りと味。
体温が急激に上がると、それは瞬く間に元の形を失って口中に広がっていった。
思わず目を開けると、伏せられた漆黒の睫毛がすぐ近くで震えている。やってくれるじゃないか。
焦点も合わないような距離で目線がぶつかると、弾かれたように矮躯が跳ねる。
逃れようともがく躯をがっちりと押さえ込み、背けた耳元で「あまいな」と囁くと「目を閉じろと言ったろう!」と睨まれた。
「時間が……無いんだ。これを届けたら松本殿と交代するんだから」
「これって」
「期間……限定のバレンタイン生チョコ、だそうだ」
任務の後までは持たないし、一週間後に貰っても嬉しくないだろう?
そう言って差し出された包みはハートの形にきれいにリボンが巻き付いている。
「開いてねえぞ。さっきのは?」
「あ、あれは私が試しに食したものだ」
松本殿が『やっぱり、レア物はその日に渡すべきよね〜』と言い出してな。
兄様には内緒でみんな交代でこっちに顔を出しているんだ。
そう言って小さく笑うルキアの方が、俺にとってはよっぽどレア物で。
「開けてもいいか?」と聞いた後、頷くルキアにさりげなく「何時交代するって言われてんだ?」と訊ねてみた。金色のリボンをそっと引っ張り、包みを緩めると「確か一人二時間と」という返事が耳に入る。
多少忙しいが、十分だ。
奇麗に箱に収まった甘い香りを放つプレゼントを「ありがとうよ」と声を掛けてゆっくりと口に入れる。
「美味い」
満足そうなルキアに「お前にも一つな」
口に含んだ塊が溶け出さないうちに素早く、唇を重ねてそれを舌で押し出した。
「んっ……!」
塊が無くなっても暫くお互いを味わうと、後に残るのは蕩けた表情の愛しい想い人。
「戻ら……ない、と」
「……多分その辺考えて、二時間にしてくれたんだぞ?」
全部ちゃんと貰うから、と笑ったけど、多分ルキアには聞こえてないだろう。
その方がいいんだけどな。
後で乱菊さんに礼言っとかなきゃ。