『年越し』


「あっ……」
 ばさばさと音を立てて、寒さに縮こまった指先から何冊かの本が床に落ちた。 図書館が休みになるからと言って少し欲張りすぎたかとルキアは慌てて下方へ手を伸ばし、拾い上げた表紙をぱんと叩く。自分の声も、書物が出す音も、いつもよりひんやりとした建物にはやけに大きく響くような気がした。
 学院は冬休み期間に入っているから人影はまばらだ。ただし、まるっきり学生がいない訳ではなかった。課題を仕上げるには此処の方が都合がいい、どちらかというと課外活動に力を入れているから等、各自それぞれの理由で帰省を遅らせている者が結構いたのだ。
 先週までは三分の一程の寮生が残っていたから、普段よりは静かだが、途切れる事のないざわめきや小さな話し声、人の気配は充分に辺りを満たしていた。
 だが今は。

 こういう時に、回りと自分との違いをまざまざと感じてルキアは小さなため息を吐く。貴族の子息が多くを占めるこの学院の寮は、長期の休みになると圧倒的に人が少なくなる。家族の許に帰省する者がほとんどだからだ。例外としては卒業前の課題に取り組んでいる六回生、家が遠くて帰る時間が惜しいという熱心な者もごく稀にはいた。そしてもっともっと稀な、帰るあての無い者が若干名。
 戌吊は此処に来るまでを過ごした場所だが、今向かっても自分達が落ち着ける家は無い。夏なら、仲間の墓参りをして、木の下で休んでも良いのだが、この季節は雪があってそういう訳にはいかない。
 寮の運営には基本的に学生の自治が謳われているから、「残りたい」と言う物がいれば各々が話し合って学院側と協議すれば問題は無く、実際そのような事が事例として記録には残っていた。
 先週の集まりはそのためのものだったのだが。

「失礼しま……」
 運営委員会の始まる時刻に会議室の扉を開けたルキアは、大きく目を見開いて、そのまま次の句を失ってしまった。
 そこに居たのは委員長と、紅い髪の自分の良く見知った人物。部屋の一隅で十分に見渡せるこの面々だけが、今日の集まりの中心になる、と空いた多数の席が物語っていた。
「……よぉ」
「お前、だけか?」
「そっちこそ他にいねーのかよ」
「今年の六回生はそんなに切羽詰ってないらしい」
「そうか……」
「あと、大きな催しがあるようで、帰らないと言っていた者も呼び戻されていた」
「ふん、こっちも似たようなもんだな」
 しかし俺たちだけか、と恋次は顔を寄せてきた。
「……置いてくれると思うか?」
「いや、置いて貰わないと困るのだが」
「だよなあ」参ったなと頭を掻きながら、頼み込むのは苦手だと恋次は呟いた。ルキアの気持ちも同じだったが、この寒空の下、ここを出されてしまったら二人には他に行く当てが無かった。

 29日には委員長さえいなくなる。それまでに話し合いの場は自分が設ける、と言い切ったのは餞別のつもりだろうか。そう事態を告げられ、是非残らねばならない理由を作り上げるべく二人は喧々諤々と話し合った。
 結果、鬼道に関する課題を先取り作成の為、また奨学生としての成果を上げる為というもっともらしい御題を打ち上げて、学院側と二人揃って協議と言う運びになった。
 勉学の為と言えば断る理由は無いので二人は無事寮に残るようになった。ただし一人の為に全ての施設を開放する訳にはいかないので、 入り口の寮務室を中心に使うようにと言うのが条件だ。普段は寮母がいるその部屋で、鍵を預かり、自治を実践するようにとのことだが、要するに自分の面倒は自分で見て、此方に負担を掛けるなとやんわり言われているに過ぎない。非常時は通報器を押せば良いが、基本的には1月5日過ぎでないと緊急対応になると言われて、「放って置かれるんだな」と言う状況判断に至ったのは記憶に新しいことだ。

 私達はよっぽど特殊なのか。考えは沈みがちになるが、課題提出の約束があるのでぼんやりはしていられない。ルキアは借りてきた本を広げ破道と縛道を対比させながらの考察を書き綴る。部屋に響くのは頁をめくる音と紙の上を走るさらさらとした筆の音だけだ。
 一通りの大筋をまとめて、ほうと息を吐くと、鬼道の苦手な幼馴染の事が頭に浮かんだ。こんな課題が纏められるのだろうか。あれは実践の方が向いていると思うのに。むしろ白打や斬術で点を稼ぐべきだろう。明日少し様子を見に行こうか。どうせ向こうの寮にも恋次以外は誰もいないのだから。
 自室で資料を入れ替えながら、窓に目線を遣ると白いものがちらりと視界を掠めた。近づいて覗き見た外は何時の間にかうっすらと白く覆われている。道理で寒いはずだ、とルキアは一人微笑んだ。一人も二人も変わりあるまい。明日は新年を雑煮で祝おうと密かに心に決めて、男子寮の方を見つめた。
 そして気付く。
 灯りが見えないことに。

 時刻はあと少しで日付が変わるところだ。寝てしまっていてもおかしくはない。皆とわいわい騒ぐ訳ではないし、あの課題に恋次が夜更かししてまで取り組んでいる姿はどうにも想像がつかなかった。自分もあまり根を詰めていては気が急くだけだ。今日はもう止めにしよう、と本棚に向かった時、窓ガラスががたりと音を立てて揺れた。
「誰だ!」
 弾けそうな心臓を抑えてルキアは叫んだ。頭の中には(非常時は通報器を……)という言葉が過ぎるが、声が震えないように、表情が崩れないように、ゆっくりと息を吐き窓の方を振り返る。
 その耳に届いたのは「俺だ……」という少しくぐもった声。
「恋次?」

 慌てて窓を開けると、身震いするような寒気と共に、木の太い枝を伝って大きな躯が部屋に雪崩れ込んできた。
 制服の肩や袖口、紅い髪にもふわふわと降りたての結晶が纏わりついている。
「くっそ寒いと思ったら!」
「何をやっているのだ、お前は……」
「てめーこそ、何で下にいねーんだよ。何度呼んでも返事がないからわざわざこっち来たんだぞ?」
「わ私は資料の入れ替えに自分の部屋に戻っただけだ。それまではずっと寮務室にいた」
「……灯りが見えたからな。だから来たんだよ」
 目的が分からず訝しげな顔で見上げるルキアに、恋次は懐から一冊の本を取り出して「ほら」と手渡した。
「これ返すわ」
「お前、これは……」
「あーわりい、やっぱ俺その手のダメだわ。諦めた」
「恋次」ルキアは大きくため息を吐く。
「これは私の知る限り、一番易しく鬼道の解説をした入門書だぞ? ここに載っている事は最低の基礎知識として覚えねばならんことだ」
「これで最低かよ……」
「ああ、だから題名にもなってるだろう?『戌でも分かる鬼道』と」
「それも気に入らねーんだよ!」
 とにかく返すわ、と恋次は頭を描きながら目線を逸らした。
 堪え性の無いやつめとルキアは一人呟く。休みの間中くらい手元に置いておけば、用語の一つや二つは覚えられるかもしれないのに。
「……今年のことは今年中に終わらせた方がいいだろ?」
 恋次がぽつりと漏らす。

 そしてルキアは理解する。
 ああ
 今年の最後に
 会いに来てくれたんだと。

「……そうだな、お前も案外マメな男なのだな」
「案外は余計だ」
「ありがとう……」
 ルキアがふわりと笑ったとき新年を告げる鐘が遠くから僅かに聞こえた。
「明けましておめでとう」
 どちらともなく互いに言い合い笑みを交わす。
「今年も宜しく」
「マジで宜しく。あの課題どうやっても無理だわ」





「なら改めてこれを貸そう。昼には雑煮を作りに行ってやるから、それまでに一章の用語三つは覚えておくように」
「何ーぃ!?」
「さあ、早く戻れ。私達は互いに寮の鍵を預かっている身だ」
 口元には笑みを湛えながら、底冷えのする眼差しで恋次を窓際に押しやったルキアは
「じゃあな」と一言告げてばたりと窓を閉めた。