『その姿、その心』
何時もなら、今日のような青空の朝は気持ちが浮き立つものだ。
それが久しぶりに巡ってきた非番の日ならなおの事。
手をつけようと思っていたあれこれ、話に聞いていたあの店に行ってみようか、など
前日から色々思案を巡らせ、計画を立てて休日を迎えるはずだったのだ。
なのに今の私は雲一つない空を見上げてため息を吐いている。
今日がどしゃ降りならよかったのに、などと考えたのは初めてのことだった。
いっそ雷でも落ちてこの辺一体が停電になってしまえばいい。
そうすれば――
全ては昨日の恋次の一言から始まった。
「明日休みだろ?」
「ああ、でも」
「……迎えに行くからな」
耳元で囁かれて、何のことなのか一瞬分からなかったが
その顔に浮かんだ笑みを見て心臓が跳ね上がった。
「お前、明日は仕事だって、前に言ってたじゃないか!」
「それならずらした」
あっさりと言い放つその顔に、開いた口がしばらく塞がらなかった。
「早いうちに、な?」
本当のところ、うやむやになることを願っていた胸の内を見透かされた私とは対照的に、
恋次の顔は楽しげな笑いで満たされていた。
「私は……一人だと思ったから、予定を入れてあるんだが」
無駄だとは思いながらも、一応の抵抗を試みた。
「んー? 却下」
私の言う事など予想済みとばかりに、恋次は「九時な」と話をどんどん進めていく。
「言っとくけど、俺は忘れねえぞ。お前はどうか知らねえけど」
あの時、勢いで『水着撮影』なんて言葉を口にした自分を悔やんでも後の祭りだった。
恋次は言い出したら必ず実行するし、それは私もよく分かっている。
明日のイベントは避けられそうになかった。
「なあ……恋次」
「あ?」
「何で、お前そんな……」
「何だよ」
死覇装に蛇尾丸を携えた恋次は、小脇に一抱えほどの包みを持っている以外は
通常の勤務時と何ら変わらない格好で、とても撮影なんて雰囲気ではない。
昨日の会話は幻だったか? と首を捻りたくなるほどだ。だが、恐ろしくて自分からその話題に触れることなど出来たものではない。
「休み、じゃ、ないのか?」
「んなこと言ってねえぞ」
「え」
「仕事をずらしたって言わなかったか?」
昨日の遣り取りを思い返して反芻してみる。
……「休み」とは確かに口にしてはいない。
「迎えに行く」
仕事と言ってたという問い掛けには
「ずらした」
……何なんだこれは!
「私はお前の仕事に付いて行くのか?」
「まあ、そうなるかな?」
恋次の意図がさっぱり分からない。
何が始まるのかと混乱した頭のまま、手を牽かれた私は屋敷を後にした。
「おい、こ……ら!」
ろくな話も無いまま歩を進める男に業を煮やした私は、
やっとのことでその手を振り払って立ち止まった。
「説明しろ! これからどうするつもりなんだ?」
睨みつける私を眺めて恋次がふうっと息を吐いて、笑った。
「これ持ってろ」
抱えていた包みを手渡された。腕を伸ばした途端に躯が宙に浮く。
「……な!?」
「このほうが早いからな。喋るなよ、舌噛むぞ」
抗議の言葉は封殺されてしまった。実際、瞬歩で移動する恋次の胸の中で荷物を抱えていては、
喋るどころかバランスを崩さないようにするだけで精一杯だったのだが。
「着いたぞ」と言われ地面に下ろされてもまだ躯が揺れていた。
何も考えず只しがみついていたならこんな風にはならなかっただろう。包みの正体に思いを巡らせても当てがさっぱり無かった。
「悪りい、急ぎ過ぎたな。やることはさっさと終わらせようと思ってよ」
「ほんとに仕事なんだな……」
「おう、ってか仕事にしとかないと解錠出来ねえし」
「解錠? お前、現世に?」
「お前、じゃなく二人で行くんだって。ほらよ、開いた」
思いがけない遠出に言葉の出ない私を即して、恋次は顎を門の方へと向けた。
「行くぞ」
――暑い――
潮の香りを含んだ風が顔に当る。光が水面に細かな乱反射をする眩しさに目を細めた。
今朝の抜けるような青空も夏を感じさせたが、その比にならない熱が頭の上からも、足元からも躯を包む。
焼けた白い砂が遥か向こうまで続いているが、動くものは波頭と何羽かの海鳥。
人影は見当たらなかった。
「さすがに暑いな……」
そう呟くと恋次は私の手から包みを持ち去って、その中身を広げ始めた。
包みの中には更に一まとまりになった筒がある。そこから取り出した細長い棒状のものを恋次は幾つか繋ぎ合わせる。それを器用に、畳まれた布の端に通すと
小さく収まっていた荷物は見る見るかさを増していった。
「何だ……これ?」
「簡易屋根。この下ならマシだろ?」
確かにそこには畳二枚ほどの日陰が出来ていた。
じりじりと照り付ける陽を遮ってその下にいると、小さな頃遊んだ秘密基地のようにも思えた。
ぴんと張った布は薄いものだったが、熱をあまり伝えないようだ。
「凄いな」
「気に入ったか?」
「まあまあだ」
機嫌を伺う紅い瞳が私を覗き込むと、視線が絡み、互いに笑みが零れた。
「……ここな、昔戦闘があった場所なんだと」恋次が沖のほうを見ながら喋り出す。
「ちょうど今時分終わったらしいけどよ、そういう時期的なのもあって先月から定期巡回コースになってんだ」
「来たことあるのか?」
「前はこんなに暑くなかったけどな」
恋次がここを知っていて私を連れてきた、ということが何だかくすぐったかった。
肩書きの無いルキアと恋次でいられる場所。
高い空と白い砂、静かな海。そして魂魄である私達が見える者はいない。
「て訳だから!」
声が突然大きくなって私の躯は跳ね上がった。
「俺ぁ巡回に行くから、お前はその間ここで着替えて待っててくれ」
恋次の顔に例の性質の悪い笑みが浮かんだ。
激しく嫌な予感がする。
着替え、着替え?
「着替えって何だ?」
さっきまでの気分が吹き飛んでいく。恋次の目線が包みの残りを指していた。
「そこにあるからな。撮影用の水着」
「お前! ……やっぱり!!」
「忘れねえって言ったろ?」
上機嫌で笑う恋次は、戻った時、済んでなかったら俺が着替えさせるからと言い残して姿をかき消した。
残された私は、怒りと悔しさで暫く拳を握り締めていたが、仕方なく用意された『着替え』に目を遣った。
前言っていたような際どいものなのだろうか。
『際どい』の基準がさっぱり分からなかったが、私はそれを手に取り恐る恐る広げてみた。
するりとした手触りがひんやりと心地よい。
控えめな光沢のある生地は白地に紺の縁取りと、お揃いのリボンが付いている。
フードの縁やポケットに同じリボンがあるから、きっとこれはセットなのだろうと判断したが、
このはおりものはともかく下着と何ら変わらないように見える、これが水着なのか?
いや、下着より派手かもしれない。
現世にいた時に、こんな大きなリボン付きの下着の女子はいなかった気がする……。
数分間の睨みあいが続いたが、出てくる答えは変わらない。
「……着るしかない、のか」
どう頭を巡らせても他の選択肢は思い浮かばなかった。
だったらあの視線の前ではなく、今さっさと済ませよう。
恋次の着替えなんて脱ぐだけで終わりそうじゃないか。
水着だけでも着ていたほうがマシだ。
それにこの格好はあまりに暑過ぎる。
いくら陽射しを遮ると言っても襦袢の内はじっとりと汗ばんでいた。
この場所を選んだのはこういう訳もあるのか?
結局はいいように乗せられているのが不満ではあったが、それが私の出した結論だった。
ただ遊びに来た海だったなら、躊躇うことなく楽しんだのに、と溜め息が漏れた。
改めて辺りを見回した。静かな波と、時折聞こえる小さな鳴き声の他に耳に入る音は無い。
恋次が戻った気配も感じられなかったので、私は身を起こして帯紐に手を掛けた。
結び目を解くと、きっちり身を包んでいた布地が衣擦れの音と共に緩む。
圧迫感と内に篭った熱が軽減した躯は、素直に快感を喜んだ。そして訴えかける。
――何をムキになっている? 着替えてしまった方が快いのに――と。
纏うものが襦袢一枚になってからややしばらくの時間が過ぎていた。
躯から滑り落ちた着物に囲まれて、なかなか私は動けずにいた。
独りきりと言っても白日に肌を曝すのには抵抗があった。
最後の一枚を脱げば、嫌でも己の躯が目に入る。
厚みも、丸みも無い、棒切れのような、子どものような肢体。
恋次はこんな躯に水着を着せて何が楽しいんだろう。
一般男性は、松本殿のような豊満な躯を好む筈だ。
こんびにで甘味を買う時見かけた現世の雑誌には、よくそんな姿が描かれていたな……
とそこまで考えて慌てて我に返った。
早くしないと恋次に着替させられる!!
腰紐を解き、腕を抜き、肩に掛けただけの衣の中で水着を身に着けようと試みた。
しかし、僅かな大きさしかないその布切れは、全く私の言う事を聞かなかった。
襦袢と躯の間で簡単に捩れて、丸まってくしゃくしゃになる。着衣どころではない。
こんな塊に悩まされるなんて、と泣きたくなった。
小細工に嫌気がさした私は、肩から衣をばさりと落としてその場に座りこみ、水着を解き始めた。
我ながら間抜けな格好だと苦笑したがこの方が掛かる手間が省ける。
実際、程なく水着はほぐれて本来の状態に戻った。
光沢のあるリボンは張りのある生地だったが少ししわになったようだ。
「……済まないな」
手の内に向かって一言呟いた。
私のところにやってきたばっかりにこんな風になってしまって。
撮影なんてよけいなことばかりを考えてしまうが、これ自体は嫌いではない。
色合いも、飾りも。ただ、ちょっと覆うところが少ないとは思うが、それは、はおりものでカバー出来そうだし。
穿いてみると腰骨の辺りに結び目が来る。しっかり結わないと大変な事になるので、きつく結び直すと
リボンの端がふわりと揺れて腿を撫でた。同じ紺色を胸の間で結ぶと、やはりそこを端が掠めてくすぐった。
最後は首の後ろで結んで止めなければならない。腕を伸ばし、見えない項に結び目を作り終えると着替えは何とか終了だ。
格闘のような時間が終わって、思わず安堵の息が漏れた。
そしてさっきは気付く余裕も無かったが、包みの奥に隠れていた幾つかのものが眼に留まる。
「これ……」
一つは白いチューブ、もう一つはきらきらと光る細かな欠片が沢山散りばめられた髪飾り。
これを、私は知っている。
前の休みの時、二人で行った店で私がどちらにするか散々悩んで、止めた方のものだ。
あの時、両方買ってやるという恋次に「一番欲しいものだけでいい」と待ってもらった。
「いい加減、どっちか決めろよ?」と言われてこれを手放したのだ。
その日、私は桜色の着物を着ていたので大きめな茜の髪飾りを選んだ。そしてその場で髪に留めて、店を後にした。
帰り道の空が同じ色で、とても美しかったからよく憶えている。けれど、菫や薄葡萄色の小さな欠片が集まった細工は、密かに心に残り、私を捉えていたようだ。
恋次は私の気持ちをよく察する。でなければ、これが今ここにあることは無いだろう。
どんな顔でこれを買いに行ったのかと思うとさっきまでの腹立ちも和らぎ、口元からは小さな笑みが零れた。
映して見ることは出来ないので、大まかに纏めて髪を留めた。
私は手先が器用な方ではないので、上手く形になっているのか自信が無かったが、どうしても今それを付けたかった。
不思議と水着の色とも合っている髪飾りと共になら、撮影だ、何だと気にせず素直になれそうで。
気持ちが初めて外に向いた。
恋次の巡回はまだかかるのだろうか。
近くに霊圧は感じられない。
はおりものに袖を通し、日陰の外に歩み出て、目の前の風景をぐるりと見渡した。
高い位置からの陽の光は肌を刺すように照りつける。
同じ陽が当たった砂から熱気が立ち上り、時折周りが揺らめいて見えた。
火傷をしそうに熱せられた其処では、立ちつくす訳にもいかず、波打ち際のほうへ一人向かった。
湿った砂の上をゆっくりと歩く。
小さな波が寄せては返し足を濡らすと火照りが幾分か和らいだ。ふと、その場にしゃがんで手を伸ばし、待ってみると
少しずつ躯が滴に覆われる。気持ちがいい。
波の手の届かないところに、思い切ってはおっていた布を脱ぎ捨てた。
「ふふ」
白と蒼と碧の集まる場所で飛沫とじゃれあうのが楽しかった。
こんな気分は久しぶりだ。
ばたばたと慌しい毎日は、過ぎていくのがあっという間だ。
本当は色々なことを思って、感じている筈なのに、その多くが拾い上げられることも無く、雑多に紛れ消えていく。
泳ぐつもりは無かったが、脚を濡らすくらいに波と戯れていると沈み込んでいた、日々の泡のような呟きが湧き上がる。
今度はお弁当を持ってこようか
髪飾りのお返しも考えて
ああ、誕生祝いのほうが近いな
それはまた別にしておこうか
それにしても、水着撮影をするって言った本人は
一体どこまで行ったんだ?
随分経つ気がするのに
私がやっと着替えたというのに
別に、水着を見せたい訳じゃないけれど
朝、思ってたよりはずっと楽しいから
お礼を言ってもいい気分なのに
まさか、巡回中に虚と鉢合わせ……?
自分の考えに軽く震えが走り、慌てて周辺の霊圧を探ってみるが辺りに不穏な気配は感じられない。
「……何、百面相してんだよ」
急に近くで声が聞こえて驚いて振り向いた。
赤い髪の男がいつの間にか私の後ろに座り込んでいた。
手にはさっき私が脱ぎ捨てた衣を持って、何か言いたげな笑いを浮かべてこっちを見ている。
「な、何でっ! お前、何時の間に!」
「さっきから居たさ。お前が気付かなかっただけで」
「だって、霊圧なんて」
「だからー副隊長の力なめてんだろ」
「貴様、隠れて覗き見してたのか? 悪趣味だぞ!」
「いや、隠れてねえし」
ああ、どうしてこうもこの男に振り回されるのか。
ほんの些細な一言で、些細な仕草、表情で簡単に浮き沈みする自分が莫迦みたいだ。
言葉に詰まり、ため息を吐く私に「似合ってるな」と一言告げるその顔を、まともに見ることが出来なかった。
「……やっぱり覗いてただろう」
そんな可愛げのない言葉が零れる。
「んなつもりじゃなかったけどな」腰に付いた砂をぱん、と払い落とし恋次が近付く。「すげえ楽しそうだったから黙って見てた」
右腕を差し出し
「脱ぐのまでは予想外だったけどよ」そう言われると、不覚にも頬が熱くなるのが分かった。
「う、海で水着のどこがいけない!? 別におかしくはないだろう?」
「まあな」
「お前の格好のほうがよっぽどこの場に不釣合いだからな!」
「そりゃあ俺仕事中だし」
「人を連れ出しておいて何を言うか」
「おお、水着撮影な。嫌がってると思ってたんだけどよ」
不意に腰に手が回り抱き寄せられた。
「なかなか積極的で、俺は感動した」
「うううううるさーい!!」
「でもな、そろそろ戻るぞ」
「え……?」
意外な一言に、躯を引き剥がそうともがいていた動きが止まった。
何だか拍子抜けな気がした。
「これ、使ってねえだろ?」
恋次が見せたのは髪飾りと一緒にあったチューブだった。
はおりもののポケットに取りあえず押し込んで、波打ち際まで来てそのまま忘れていたものだ。
「言ってなかったもんな、これ保護剤なんだと。海は光が強いから塗っておかないと後が辛いって」
「使ってない、けど……お前、そんな話どこで」
「まあ色々用意したからな」
私の顔が納得してないのが分かったのか、肩に手が伸びてきた。
「ほら、ここ、熱くねえか?」
「やっ……!」
首に回るリボンが引っ張られると、ぴり、とした刺激が走った。
「もうちょっと色変わってんな。お前は白いから気をつけないと」
「な、に」
「今からでもこれ着とけ。触れなくなったら困るし」
触る?
「酷くなったら布が触っても痛いってよ」
揶揄する目線と共に恋次は私にはおりを差し出した。
既に全身が熱かったけどこれは何の熱なのか。
強い光のせいか。それとも私がおかしいのか。
確かに戻った方が良さそうだ、と衣に袖を通しながら私は軽い眩暈を感じていた。
陽はまだ頭の遥か上だった。