「痛……い」
か細い訴えが世界に亀裂を入れた。
視界にあるのは苦痛に歪む表情だけで、その切迫した声に背筋が冷たくなりながら躯は動かない。
この手を緩めなければと思うのに、四肢が己を裏切る。
きつく掴まれたそこは血の気を失って蝋のように白かった。
「放せ、恋次!」
はっきりと放たれた言葉でようやく呪縛が解ける。弾かれたように起き上がる躯は汗でべたついていた。
「何だお前は……? 篭りっぱなしだから様子を見に来たというのに」
ルキアは眉を寄せながら掴まれていた手首をさする。傍から見てもそこには紅い痕がはっきりと色を落としていた。あれは俺の指の痕だ。
こめかみを押さえてぐらつく思考を平静に保とうとする。気付かれてはいけない。
「悪いな……性質の良くない風邪みてえだからよ。うつしたらヤバいからな」
我ながら苦しい言い訳だと思った。ルキアの顔はまだ不満を訴えている。
それならそうと教えろと口の中で呟き、ふとその場を離れていく。それでも、今の顔を見せずに済むならと正直ほっとした。
あんなルキアを俺は知らない。
紫紺を濡らし
手足を投げ出し
柔らかく白い肌を曝し
至る処に紅い花弁を散らし
その中でも 一際紅く
下肢を染め
力を失い 横たわるルキアを俺は知らない。
俯くと、ぱさりと落ちてきた同じ紅が目に映る。その禍々しさに哂いがこみ上げた。
この紅は戒めになるだろうか。
自分を見る度に、知らないルキアに身震いしてその姿を追い出そうとするのか。
それとも
この紅に 染め上げたい誘惑に取り憑かれるのか。
「笑えるなら心配するほどでもないのか?」
急に声が近くで聞こえて、びくりと顔を上げると手桶を持ったルキアが此方を覗き込んでいた。
「うつるから来んなって……」頭の中を見透かされそうで、目が合わない様に横を向いた。
「ん……そう言うと思ったんだけど、お前すごく汗をかいていたようだったから」
俺の脇に桶と粗末な布切れを置いてルキアは小さく笑った。
「うつっちゃマズイんだろう? 用意はしたから後は任せたぞ」あとこれな、と懐から小さな実を差し出す。
「早く直すのもお前の仕事だからな!」
俺に発言の暇を与えず、そう言ってルキアは素早くその場を去り、手の中には紅い実が一つ残った。
貴重な食料を俺に預け、お前はどうするんだと頭の中でぼんやり訊ねる。
渡された手首には痣が浮かんでいた。
紅い実を喰えと言うのか?
お前はちっとも変わらない。
自分の変貌に吐き気がする。
知らないルキアを 何時か知ることになる予感がした。