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「お前は行け!」
突き飛ばされた若者は一瞬躊躇いの表情を見せたが、自分を怒鳴りつけたその形相を見て取ると、脱兎の如く駈け出してみるみる豆粒ほどに小さくなっていった。
一人残った紅髪が、そのまま周りを囲む輩を射殺さんばかりの視線で睨みつける。無関心にその場を離れて行く者、騒ぎに乗じて憂さを晴らす腹積もりの者、おこぼれが無いかと期待する者、様々な視線が交錯した。
「テメー、いい根性してるじゃないか!」
「来い!」
胸ぐらを掴もうとする手を払い除けると、刺すような空気が辺り一帯に広がった。
「こんのヤロ!」
「どうしたのさ? 騒がしいねえ」
その場の雰囲気から大分外れた艶のある声が響いた。奥から出てきた女は、幾分棘のある口調で睨み合う男達を一瞥した。
「姐さん!」
「コイツ反物盗んで、仲間に持たせて逃がしやがった!」
「しかも上物の方から狙いやがって」
「ふう……ん」
女は気の抜けた返事をしながら紅い髪を眺めた。その絡め取るような視線が、僅かに恋次を身震いさせる。
力がぶつかってくるのは日常的なことだった。それに対抗出来るほどに、少年は青年の躯へと変貌を遂げていた。回りから見上げられる背丈からすると幾分細い肩や腕が、鍛えればまだまだその筋肉を増すことを予想させた。
ここでは逞しい躯は財産であり、そのまま生きる術であった。
「あんたさ」口角を上げながら女が声をかけた。
「活きのいい目をしてるねえ……」
そんな風に言われたのは初めてだった。不機嫌そう、人相が悪い、生意気。大人に言われるのは大抵けなし言葉で、それが自分に対する評価だった。もっとも、自分の態度が悪いのは事実だから褒められるとかえって居心地が悪い。訝しげな顔の恋次に向かって女が笑った。
「それ幾らの品物だい?」
「な……ん?」
「同じ値段であたしがあんたを買うよ」
「姐さん?」
「何言ってんですか!」
慌てた顔で歩み寄る男達を意に介さず、女は言葉を続けた。
「悪い話じゃないだろ? あんたのしたことが盗みじゃなく商売になるんだ」
それは自分を売買の品物とすることだ。色町でなら分かるがここでこんな話に出くわすとは。思わず声が荒ぶった。
「冗談じゃねえ!」
「ああ、冗談なんか言わないさ。あんたはいいよ? 躯も良いしコイツらとも渡り合えるだろう」
でもね、と呟く女の目がすうと細くなった。
「あんた仲間がいるんだろ?」静かな口調が言葉の凄みを増す。「……この先安心してここらを歩ける方がいいんじゃないかい?」
「……それはどういう意味だ」
問い掛けながら声が震えそうになるのを必死で噛み殺した。
「どうって、言った通りだよ」
「二度と近付かない、って訳無いよねえ」
女は笑っているがその目は真っ直ぐに恋次を射抜く。背中を一筋の汗が伝った。
柔らかな口調とは裏腹に、この話には選択の余地が無かった。やると言ったらこの女は必ずやるだろう。人質を取られているも同然の状態だった。
ふと、睨み合いに場違いな声が割って入った。
「姐さーん、お戯れはその辺で……」
台詞が途中で途切れた。恋次を射抜いていた視線がそのまま移動したからだ。男の顔色が見る見る蒼白になった。
「……あたしの店であたしに指図するのは誰だい?」
「さ、指図なんてとんでもない!」
「そうですよ! ただ、このことが宝仙さんの耳に入ったら」
「あんた達が喋るならね」
男達の表情が変わった。
「いいえ」
「……なら大丈夫だろ? あの人が次に来るのは一ヵ月後だ」にっこりと微笑む女の顔と、汗を滲ませ色を失った男達の顔はそのままこの店の中の力関係を表していた。
「悪かったね。内輪の話聞かせちゃってさ」そう口にする女からは、打って変わって柔らかな雰囲気が伝わる。どれが本当の顔なのか、確かなのはここが戌吊という事だけだ。
「分かった」恋次の声が低く絞り出された。
「売ってやるよ」
「……言っとくけど売り物は買い主に逆らわないもんだからね。そんなことがあったらその時点で売買不成立だ」
「いい買い物かどうか知らねーぞ?」
「それはあたしが決めるよ」
これは何だ。
「――――ぁぁあん!」
白い喉が目の裏に残る。女が上で仰け反っていた。
一体何だ。自身がぬるりとした蠢きに包まれて、息も吐けない。喰いつくされる感覚で背中が痺れた。部屋の中は帳で仄暗く、やけに甘ったるい匂いが漂う。
「……くっ」
押し殺そうとしても声が漏れた。多分快楽に溺れた方が楽だろうというのは容易く想像がついた。だが、脳裏に焼き付く表情に見られている気がしてそれが出来なかった。頭の中は冷静なのに、感覚が妙に敏感でそこは別の生き物のように熱く脈打った。
痛みに耐えることには慣れていた。殴る、蹴るは小さい頃からの日常だったが快楽による暴力というものに恋次は初めて遭遇して、激しく動揺していた。
一体これは何だ。
「う……くぁ!」